少し前の事ですが、日本経済新聞(2023年5月20日)の中で、
批評家の若松英輔さんという方のコラム「言葉のちから」に目が留まりました。
その中で、若松さんは奥様との死別や東日本大震災を経て
『思うようには生きられないというのが確信になった』と書かれ、その先の
『いつこの世をあとにするか分からない。だから計画は無駄だ、とはいわない。
計画は、自分というよりも、遺される人たちのためである場合が少なくないことも承知している。』
という一文が、特に印象に残りました。
このコラムのメイン・テーマは、「計画」ではなく、
想像すらしない計画外の出会い(若松さんにとっては詩を書くこと)を見過ごさずに、大切にという内容でした。
しかし対比として示された「計画」について、
詩人でもある若松さんの言葉は見事に「相続の計画(対策)」の意義を教えてくれています。
ただ、よく読み直すと若松さんは『現代は無計画で進むには少し複雑に入り組んでいる』としながらも
若松さんが電車で見たという「ライフプラン」「マネープラン」「キャリアプラン」といった、「プラン(計画)」という言葉に、仕事人としてではなく『一個の人間として接するとき』には違和感を感じると書かれています。
ここでの「違和感(もやもや?)」は何でしょうか?
それはきっと「自分」や「遺される人」ひとりひとりの感情や思い、という定量化出来ない「ひだ」が置いてきぼりにされたように感じたという事ではないか、と私は思いました。
私は、「ひとりひとりの感情や思い」を汲み取った「相続対策(計画)」サポートを目指しています。もしあなたが遠方にいらっしゃる場合は、同じ志を持つお近くの相続コンサルタントをご紹介出来るかも知れません。